(´∀`∩くぽぁ記(´∀`∩

【FF11冬眠】腐女子の隠居生活【FF14引退】
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【3.11】今日で一年

ちょうど一年前の3月11日の昼下がり それは起こった。
瞬く間に日常を壊し、今まで当たり前だと思っていたものを掻っ攫っていった。

「知ってる人が死にすぎてもう涙も出てこない」
町一つ丸ごと消し去るような津波で、そこに住んでいた友人の言葉が印象的だった・・・。

私も家族は無事だったが親戚や知人は何人も亡くなった。
命はあっても家や大切なものを失った人も多い。
むしろこの辺りに住んでいて親族、住居、知人、全て何ともないという人はいないだろう。


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ここから先は生まれて初めて見た光景とかもう二度とないだろうなってゆう体験とか震災後の個人的な記録。
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上に見える路線は仙台空港アクセス線。

真上ではしばらく飛行機が旋回していた。
道路も冠水してきて沿岸部に行こうとしてる車は反対車線から逃げてくる車からパッシングされたりクラクションを鳴らされ、奥に写っている車もUターンしていたと思う。
このあと白いヘルメットをかぶった恐らく自治体の防災関係者に「ここも危ないから中学校に逃げなさい」と言われ学校へ向かい、体育館で書いた住所・氏名が東日本大震災安否確認サイトに長いこと載ることになる。
 後になってそこを自分の名前で検索すると同じ町に住んでいて家が流されたらしい全く同姓同名の女性が一週間以上見つかっておらず私も気になって毎日検索していたらある日避難先で無事に見つかったという情報が入り全く面識はなかったけれど嬉しかった。

 学校で名簿に記入したあと夜になり連絡が取れた知人の知人宅へ停電で信号や街灯の明かりも何一つない、避難者で渋滞している車のヘッドライトのしかない町を移動し避難させてもらったのだが、3/11の夜ラジオで「仙台市若林区荒浜で200~300人の遺体が浮いているとの情報が~」と一晩の内に何度も繰り返し言っていて本当に戦慄したのを覚えてる。
同ラジオで自分の住む町も「半分が水没」と伝えられ、川も近いしうちも駄目なんじゃないかと思った。

3.12
翌日黒電話で連絡の取れた親戚が迎えに来てくれてあるかも分からない自宅へ向かう途中、高台に登ったとき見渡した町がありえないところまで水に浸っている光景を見て叔父と絶句した。
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↑本来道路の両側に水はない。
家に着いて無事だった家族と合流した後のものだが海から5キロはあるんじゃないかってところでも川や田んぼの用水路を伝って海水が来ていた。

3.13
近所の人からの情報で飲料水が貰えるという話の児童館で一人6リットル貰うのに3時間並ぶ。
場所によっては5、6時間並んだなんてところもあった。
途中校庭に自衛隊のヘリが止まりプロペラで起こる暴風の中一人一つくらいの荷物を抱えた一家が降りてきた。
 夕方、他県からの応援と思われる消防車と救急車が隊列をなしてやってきた。
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網戸越しだけど赤色灯を点滅させながら20台くらいこの行列は続いた。

3.14
 99%くると言われていた宮城県沖の為にと震災前から家に置いてた日持ちする飲料や食料、災害用トイレ、家族全員の車に積んでおいたウインドークラッシャーや非常用持ち出し袋などの非常用の備えの参考にしていた阪神大震災を元にした防災の本に「全てのライフラインが絶たれたとき一番早く復旧するのは電気」という話を読んでいたが、津波で電柱が折れたり倒れたり、水は来なくても傾いていたりしてたし、浄水場は水没。
家屋の倒壊や火事の目立った阪神の時とは明らかに違う状況に、備蓄分があってもライフライン寸断状態がいつまで続くか分からなかったので毎日飲料水に並び、ラジオや携帯の充電器に使う乾電池は有限なので節約していた。
入院中だった母を除く父と弟にも防災の本を見せたが、事前に準備すべき事柄がほとんどなので事後に役立つことはあまり多くはなかった。
 この日の夜、電気と携帯回線が復旧。

3.15
 電気ガス水道もない、電柱も倒れている、道路もボコボコ、ガラス割れてる、天井落ちてる、棚が倒れて商品が散乱している、みたいな状況でも食料が買えそうな店舗を何軒も周り、営業している店や給油できそうなガソリンスタンドを探した。
スーパーで3、4時間並んで1人5品入店時間5分制限とか。
時間制限がある店舗は真っ暗な店内を何が有って何が無いか入店者の希望を聞きながら「缶詰?無いです。飲料?水とお茶類はなくなりましたが炭酸ならまだ残ってます」など短い時間を無駄にせず案内してくれる店員が懐中電灯を持って付き添ってくれる為。
レジが停電で使えないので金額を暗記している店舗もあれば付き添い店員が金額をメモってレジで電卓計算というところも。
 しかしある程度過ぎればスーパーに行ったとしても売り切れたまま物流が死んでるから仕入れがない。
残り物を漁るような感じなのでまともな食料はない。
パスタソースやふりかけとかの補助食品やスナック菓子。

最初の日から買い物に行った身としてまず最初に売り切れたのが→水、乾電池、携帯充電器、缶詰やカップ麺、インスタントラーメン(辛ラーメン除く)、ガスコンロの燃料など。
欲しい!と思ったものは皆が欲しい物なのでまず無いものと考えたほうがいい。
避難所で配給されるものを受け取れる権利は家族を失った人や、自宅を流されたような人達の為のものだと思っていたから、命があって住める場所がある自宅難民は自力で水や食料を調達していた。
この日じゃないけどしばらくあと近所にできた自衛隊のお風呂も我慢。
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ガソスタはデマが多く並んでも給油できないとかザラで、
並んでるからやってるだろうって考えで事実確認もせず最後尾に並ぶ車がほとんど。
確認するにもスタンドが見えないような行列の端からかなりの距離を歩かなきゃいけなかった。
今日タンクローリー来るかも!?って噂のスタンドに並んだり。
長いとこだと10kmの行列があったとか。
一家に一台ではなく一人一台以上の車社会なド田舎で1週間もしたら車の通行量は1/3になった。
助かっても車は流されたって人が多かったのもあるが、最大の理由は燃料切れ。

3.16
電気が通って映るようになったTVで頻繁に原発ニュースを見るようになり外出を控えたりもするが、既に手遅れだったことは後から知る。

3.17
依然水道は止まったまま。
飲料水とは別に食器(皿や茶碗は洗い物を出さぬようラップをかけて使うので主に鍋とかキッチンツール)を洗ったり、掃除したりする時に使う生活用水をゴミ箱やRVbox、シリコンバケツなど家にあった容量の大きい入れ物に市販の厚くて大きいゴミ袋を入れて汲みに行ったりしていたが、この日突然庭の水道からだけ水が出るようになる。
水を組み上げる力がまだ弱く外で低いところにある水道だけ出たんじゃないか?という話だった。
 震災後なぜかお腹も空かない、喉も渇かない、トイレも近くならない、汗もかかない、頭も痒くならないという感じで身体が順応してきていたけれど水が出たのを見ると急に頭を洗いたくなった。
震災から一週間、身体を拭くことはあっても水が貴重なので頭を洗ったりはできなかった。
雪がチラつく天気で外水道に氷が張っているような気温だったけど思い切って真水で洗髪した。
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家族には止められたが雪の中真水で頭を洗いきる。
氷水で洗っているような気分で頭皮がヒリヒリ痛むのと、洗ったあと頭に激痛がしたがサッパリした。

3.18
入院してた母退院。
当日いた場所が場所だったので家族全員から死んだと思われていた父の無事を喜んだ。
ガソリン節約していたから久しぶりに車を出した。
病院の帰り流された車を探しに行ってみる。
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割とすんなり見つかった車はバールのようなもので給油口をこじ開けられていた。
何か使えそうな物はないか無理矢理ドアを引っ張ってみたが全部ヘドロまみれで金属製品は一週間海水に浸ったせいでサビサビに。
流された車にも非常用持ち出し袋を作って入れていたけれど、包帯などの医療用品も泥だらけで使えそうなものはなく全部そのまま残してきた。
このとき持ち出したものは被災証明の発行に使う車検証くらい。
後から知ったのだがナンバープレートもあると手続きが楽だったらしい。

3.19
水道復旧。
でもまだ時々止まったり不安定で、防災無線にて「飲み水にはするな」との御達しだった。
上水は出るようになったものの下水はまだ死んだままだったのでトイレを普通に流してマンホールから溢れ出た地域がいくつかあったようでトイレはあまり水を使わず下水に負担をかけないように、食器など洗ったりした水は排水溝に流さず庭に撒けとの放送も。

3.24
光回線復旧。
電気は通っていたがこれでようやくPCが使えるようになる。

3.29~4月上旬
インフラも整ってきて物流も徐々に回復して営業開始したスーパーへ。
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今まで散々不足していた乳製品を補うようにこれでもか!というくらい牛乳が並ぶ。
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品揃えに偏りはあるものの商品棚が埋まってきていることが嬉しい。
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強い余震が多いので天井吊り下げの防炎ガラスや一面がガラスになっている壁はシートで覆われている。

4月
3.11から一ヶ月。
連絡が取れるようになったときにはもう済んだ人もいたけれどお葬式に出たりなんだり。
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余震でも震度5クラスが多いので油断できず、家の中はこんな感じ。
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職場の片付けに向かうと落ちた天井を張り替え中。
これが頭に落ちて何針も縫ったという知人の話を後から聞いた。
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土手状になっている有料道路が最終防波堤となり東と西では大きく命運が別れた・・・。
上が西。津波と家や船などが塞き止められ、水の流入を抑え細かいガレキがほとんど。
下が東。船や木造家屋、大量の車が転がっていて最初はここが日本だということが信じられなかった。
だけどいくら変わり果てていても知った建物の一部などを見ると納得せざるを得ない。
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防潮林の松林が流されここにあった松の多くは大量のガレキを形成する一部となった。
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通勤でよく通ったりするこの先のトンネル。
震災後しばらく通行止めで中に逃げ遅れた人が沢山いたって話を最近聞き通るたび胸が痛む・・・。
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閖上朝市(仮)にて自衛隊の第十師団の音楽隊の皆さん
ジブリやアンパンマンマーチ、らいおんはーと等インストだけでなく歌ってくれたりもして、
東北出身だという団長さんのお話が胸に染みた。
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4月中旬にはプレハブ営業している役場にも桜が。
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一ヶ月も経つと家族も私も徐々に仕事に戻るようになるが車が足りないので見に行ったり。
宮城だけで15万台流されているだけあって中古車ショップによってはもぬけの殻になっていたり、売り物の車よりお客さんから引き取った被災車両の方が多く並んでいるショップまで。
安くてイイ車は既に売り切れているので1ヶ月も経つと微妙なところ。
需要と供給では圧倒的に需要の方が多いものだから中古車ショップ、新車Dどちらも足元を見やる。
特に新車Dなんて超強気だった。
しかし無いものは無いので一台は新車、一台は中古車で購入した。
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後ろに映るボウリング場は長いこと遺体安置所だった。
最初は役所だったが亡くなった方が増えすぎて、ずっと空店舗だったボウリング場に変更したらしい。
車を見てる向かい側では頻繁に霊柩車が入っていったり、大切な人を探しにきてるんだと思うと居た堪れない・・・。

6月
病院スタッフが屋上でSOS送ったことで有名な病院。松林のすぐそばにあり孤立した。
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認知症の祖母が入院するはずだった。
その祖母が通っていたデイサービスは全壊。
海の目の前にあって景色も綺麗で温泉も出ている人気の施設だった。
お年寄りを避難させていて逃げ遅れた介護士さんもいたのに認知症の祖母は施設に置いていた自分の荷物の心配しかしていなかった。
非常事でもそれが理解できず普段通りの行動をとろうとするのでどうしようもない。



最後に役所に設置されたパネルから一部抜粋
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去年までこの町に住んでいて親戚や知人も多かったので、変わり果ててしまっても特徴を見ればどのあたりか分かる場所も多い。
一度は無事が確認されたのに何かを取りに行こうと沿岸部の自宅へ戻ろうとし、流されてしまったはとこもここだった。
私より4つ上で眉目秀麗と言われていた彼が見つかったとき顔には大きな裂傷ができていた。
しかし未だに見つからない人も多い中DNA鑑定もせずに家族の元へ帰れた彼は幸せだったんだと思う。

この日、本当に何気ない選択で生死が決まっていたと思う。
「もし〇〇だったら」
これは誰にでもある。誰にでも起こりうること。
私も新港に遊びに行こうと友人に誘われていたのも丁度この時期だった。
3.11で壊滅した地区の一つだ。



震災後初期は特に、沢山の都道府県からパトカー、消防車、救急車が応援にきてくれていました。
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 主に電気が止まった地区での手信号や治安維持パトロールなど。
車でちょっと出ただけで愛媛、高知、徳島、香川と四国全てのパトカーを見た日もあったし。
こちらから比べるともはや南国の域である九州からの緊急車両もよく見かけた。
(都庁のパトカーは年の明けた今でも残っている)
 パトカーや救急車などの緊急車両だけでなく自衛隊やボランティアのユニホームなどに刻まれた文字でも、北は北海道、南は沖縄と本当に日本全国の都道府県を見かけて心強かった。
もちろん米軍はTomodachi!!
そして、身動きの取れないところから助け出してくれたり、ガレキを掻き分けみんなの大切な人を探してくれたり、インフラを整備してくれたり、水や食料を配ってくれたり、物資を運んでくれたり、音楽やお風呂を提供してくれたり。
いつも影に隠れ、畏まって報道されたりなんかはしないけれど全ての人達に自衛隊の活動が関わっていた。

支援頂いたすべての人々に感謝!!
同じ小さな島国。まだ終わっていない。
そして、またいつどこで起こるかも分からない地震や津波。
だからこそあの日のことを忘れないで欲しい。
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2011.03.11 14:46
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